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【情熱輩先】㈱紀乃屋 中井社長〜未来は創造によって作られる〜

執筆者の写真: 倶楽部 オアシス倶楽部 オアシス




和歌山県日高郡みなべ町を拠点に、日本一のブランド梅として知られる「紀州南高梅」やアイスクリームの自社生産・自社製造を手掛けている『紀乃屋』



起源は1816年(文化13年)まで遡ります。


三代目が紀伊田辺藩の南部地独特の業態である「半農半漁(生業の半分が農業で半分が漁業)」を確立。


七代目である中井誠社長が、農業漁業ともに拡張。法人化して農林水産省の認定の中でも最高峰の農業認定である「六次産業化総合化事業計画認定」を取得。


約200年、先祖代々継承されてきた伝統を大切に守り、最先端のテクノロジーを融合し革新を起こし続ける中井誠社長。




今回は、情熱焙煎でお馴染みの阿部千恵美が中井社長にお話を伺いました。




阿部:本日は、中井社長のプロミュージシャン時代のお話や、会社の立ち上げ、現在に至るまでを聞かせていただきたいと思います。


まずは、中井社長の幼少期の頃のお話をお伺いできますか。



紀伊半島の南部に位置する和歌山県の沿岸部


海と山に囲まれた場所で、梅農家と漁業の半農半漁と生業にする中井家の長男として生まれました。


まわりの山を駆けずり回ったり海で泳いだりして遊ぶ、わんぱく坊主でした。




今で言う多動児ですね。


あとは、HSP。

後になってわかったんですけど、HSPが当てはまると言われている4カテゴリーの内、2つが僕は振り切っていました。



それは何かと言うと、

『感情とか情感』といったカテゴリー。

今一つは『イマジネーション』

妄想のカテゴリー。


僕これは、当たってると思うんですね。



子どもの頃は、学校で授業を受けてる時、じっとはしていないんだけれどちゃんと先生の話は聞いている。


だけれども、脳の中では違うところで違うことを並行して考えている。


そんな子どもでした。


小学生の頃はまわりの大人も含め同年代の子どもたちにも、所謂本音を言ったことがなかったですね。




阿部:社長のお母様はどんな方だったのですか?どんな子育てをされてきたのでしょうか?


母親はと言えば、夜勤もある看護師だったんですよね。


なので、参観日だったり運動会などの学校のイベントに来てくれていたのは、大半がばあちゃんでしたね。



田舎の農業漁業の家で、同居しているじいちゃんばあちゃんに育てられたので、同年代の方よりも躾けられた内容が一世代二世代古いんです。


それに仕事をして忙しくしていた母親に、当時すごく言われたことがあるんですが、


それは


「手堅く生きろ」でしたね。


昭和のバブルも弾けた当時でしたので「公務員になれ」とか「士業の資格をとれ」とか。

もうそればかり言われました。



でも、公務員になろうとも士業の資格をとろうとも、一度も思ったことはなかったです。


今でも残ってるんですけど、小学校6年の時の卒業文集に、まわりの子はみんな「スポーツ選手になりたい」と書いてる中、僕は「研究者になりたい」って書きましたね。



『興味のあることを掘り下げる』ということが、当時からすごく好きでした。




阿部:小学校卒業後、中学校での部活は何をされたのですか?


それは、小学校まで遡るんですけど


母親の方の親族にも、父親の方の親族にも野球に関わってる人が多くて、物心ついた時から少年野球の監督をしていた親父に強制的にやらされていました。


母方の僕の1歳年下の従兄弟に、阪神タイガースの濱中治という元プロ野球選手がいるんです。彼は小さい頃から野球の英才教育を受けていました。


親父の弟は、日本新薬の社会人野球ですごく活躍されていましたね。

彼は当時京都にいたんですが、休みになったら定期的に和歌山に帰ってきて、僕に野球を教えてくれる。


そんな環境にいました。



小学校の3,4生の頃は本当に野球が大好きで、「野球をずっと自分はするんだろうな」と思っていたんです。



ただですね、僕人生の過渡期と言いますか、ねじ曲がったのが小学6年生の時。



当時親父が監督の少年野球チームのキャプテンをしていました。体格のよかった僕は、ピッチャーで4番もやっていました。


大人になった今はその時の親父の気持ちは分かりますが、当時は殴る蹴るが当たり前の時代。


自分が犯したミスで殴られるのは何も思わないんですよね。

ただ、田舎の少年野球チームなので低学年の子も試合に出ている。


その子たちがミス、エラーをした場合、その子を怒らず僕が殴られるわけです。


それは当時なんで、練習の時だけでなく大会の試合中であってもです。



そうするとね、みじめなんですよ。


自分がミスって殴られるのは何とも思わないんです。

でも、他の子がミスったのを、大会なので他の父兄も見に来ている中で、晒し者のように殴る蹴るされるわけで。


あれでやっぱり、野球が嫌いになった。




中学校に入った時、親は当然「野球部に入れ」と言いました。


でも僕は、チームプレーではなく、個人プレーをやりたかった。


その時ちょうど仲のいい友達2人が陸上競技をやってて、誘ってくれたので僕も陸上を選びました。



ただ陸上競技でも走る方とか飛ぶ方ではなくて、投てき部門、投げる方を選びました。


なぜ投てきだったかと言うと、僕は成長が早かったので小学6年の時には身長は160cm後半あったんですよね。


それと、子どもの頃から家業の農業や漁業の手伝いで力仕事をさせられていたので、腕力もありましたし、力には自信があったんです。


尚且、個人プレーで他の干渉を受けない。

という事と仲のよかった人間が2人声をかけてくれた。


それが投てきを選んだ理由でしたね。




阿部:陸上部は中学3年間続けたのですか?


ええ。中学校ではクラブ活動も続けましたし、学校にも普通に行きました。


だけど、色んな母親の状況や親父との関係性があって僕がこうしたい!と思うことをすべて昭和の頑固親父にねじ伏せられるわけですよね。


だから、本音が話せない。相談できない。


そういったことで、中学校2年の時から思いっきりグレましたね。




阿部:クラブ活動はグレてからも続けたのですか?


グレたんですけど、投てきが嫌いな訳ではないのでその練習はしましたね。


というのもその頃


格闘技に興味がある

力がある

もっと強くなりたい


こういった男の本能の部分が出てくるわけです。



これが走る飛ぶトレーニングだと耐えれてないと思うんですけど、結局投てき部門というのはウエイトトレーニングばかりするわけです。


そうすると、僕の中でより遠くへ投げたい。ということよりも、力をつければ強くなるからそれのトレーニングだと思ってやっていました。



だからグレてもクラブ活動は辞めずに続けられたんです。


グレてからは見た目も変わってガラも悪い感じですけども、大会に出ると結果を出すんですね。トレーニングはしてるんで。



不純な動機なんですけど、たまたま必要なトレーニングが一緒だったということです。




阿部:学校へは行かれていたんですか?


中学校というところは当時、僕らより5歳から10歳上の方々の時って、校内暴力ですごく荒れた時代でした。


それに伴い、各中学校に、今だとすぐSNSで叩かれそうな所謂体育会系のすごく怖い暴力教師が3人程おられたわけです。


当時ですから、悪い事をすると騒ぎになるくらい殴られることもありました。


でもその先生方もその時は教師ですけど、昔は悪かった方々なので気持ちはわかってくれるんですね。


「お前たちの気持ちはわかるけれども、学校にだけは来い」と言ってくれて、でも行かないと殴られて非常に怖いので、学校にだけは行ってましたね。


そんな中学校時代でした。




阿部:ところで社長、音楽に興味をもたれたのはどのあたりからですか?


これがまたね、グレたあたりとかぶるんですよね。

中学校2年ですかね、音楽をやり始めたのは。


それまではただの田舎のわんぱく坊主だったんですけど、中学校に入ると先輩方やまわりから色んな社会的情報が入ってきます。


そこでの情報量、刺激が多すぎて、一気にそれまでの純朴な田舎のわんぱく少年からの反動があったと思います。


グレてはいきましたし、とは言えクラブ活動はやって、学校が終わって夜にかけては音楽バンドの練習をする。


そういう生活が中2の頃から始まりました。



練習場所はというと、田舎の特権である友達がもっている家の倉庫がちょっと山の奥にあるんですよね。


そうすると、24時間爆音を出しても誰にも怒られない。


そこにみんな集まって、先輩方や友達の兄ちゃん姉ちゃんの話を聞いて、当時BOØWYっていうバンドがあったんですけど、彼らに感銘を受けました。


その時は第2次バンドブームで全国どこに行ってもみんな、ギターをぶら下げて歩いてる。


そんな時代でしたので「BOØWYのコピーバンドをやろうぜ!」となったのが音楽の始まりでした。


そんな中学生生活を送っていました。





阿部:では社長、高校はどういったところに行かれたのですか?


本当は行きたい高校があったんです。


当時の僕からすると、大事な事の優先度が

音楽のバンドが盛んで、いいメンバーが行きそうな高校という『音楽の優先』


あとは『強い』ことで進んでいける学校


ということで、行きたい高校があったんですけど、ここで母親から言われたことが


「そこ行くんやったら、中学校出たら働いてくれ」でした。



僕、中学3年くらいまではそんなに勉強なんてしないんですけど、テストの点数はすごくよかったんです。


とりあえず中学校出てまだ働きたくないし、まだまだ親のスネかじって音楽もやりたいし、と思って母親の言う通リ地元の進学校を受けることにしました。


ただ母親には交換条件を出しました。


進学校に受けて受かっても、

勉強はしません。

3年間好きなことを全開でやるよ!と。


そこで母から逆に出されたのが、

留年しない。

赤点とらない。

でした。




阿部:進まれた進学校ではどんな高校生活だったのですか?


そうですね。親に対しての『プレゼン』も通っていたので、やりたい放題でしたね。




高校1年の1学期くらいは毎日登校してましたけど、2学期くらいから変わってきて、


「強くなろう!」と「音楽をやりたい」のバランスがその時々で買ったり負けたりするようになっていました。



高校1年の1学期が終わった頃に、何か一つ格闘技をやりたいなと思ったんですね。


ただ外部でやるとお金がかかるので、進学校だったんですけど、たまたま柔道と剣道はすごく強豪校だったんです。


そこで僕は柔道を選択して、1学期の夏休み前くらいに入部をしました。


『有段者になるまではやめないでおこう』と決めて始めました。


音楽と柔道を並行してやる。そんな生活でしたね。




進学校なんですけども、頭のいい不良達や音楽が好きな人達がたくさんいたので、そいつらとつるんで、


当時で言う、朝は喫茶店のたまり場に集まって、バンドの練習を2時間くらいしてから登校。


放課後はまた部活をするわけですけど、この顧問の先生も中学校時代と同じような方で、すごく怒られました。


髪の毛が金髪で音楽をしていて、朝から学校に来ないのはどういうことだ!とかね。



でもそこから半年くらいで黒帯を取得しました。



忘れもしません。黒帯を取った後、次に大きい大会があるということで練習をしていたんですが、


その頃僕は『有段者になった』ことで、もう目的は達成していたんです。


なので、自分の中で『強くなる』ことより、どんどん音楽の方が上にあがっていって、学校に行かなくなったんですね。


放課後クラブ活動が始まる前に登校して、それが終わったら帰る。

そんな事が顧問にバレて、道場でむちゃむちゃ怒られました。


その時初めてその先生に逆らいましたね。


そして「もう僕、目標達成してるんで辞めますわ」って言って、それっきりです。




阿部:ではそこからは、音楽に振り切られたのですか?


そうですね。当時バンドブームで、和歌山県の中部から南のエリアにたくさんバンドがありました。


僕何を隠そう、当時中2から始めた楽器がドラムなんです。


ドラムって、なかなか買ってもらえなかったりで、ドラムの人口が少ないんです。


なので、色んなバンドから「掛け持ちをしてほしい!」という声がかかるようになって、あちこちの高校の文化祭に何校も出たりして、忙しくしていましたね。




阿部:ドラムって全身を使う体育会系なイメージがあるのですが、なぜドラムだったのですか?


家の近くの先輩がたまたまドラムをやってはったんですね。


BOØWYのコピーバンドをやろうとなった時に、楽器を買わなきゃいけなかった。


でも親は買ってくれない。


そこでその先輩がもってるドラムをすごく安く、5,000円くらいで譲ってもらったんです。

そんなきっかけですね。




阿部:ずっとドラムをされたんですか?


中学2年から高校卒業まではドラムをしましたけど、

詩を書いたり曲を書いたりするのは高校2年から始めました。




阿部:それは何かきっかけがあったのですか?


ありました。おもいっきりありました。


僕が行ってた学校が進学校だったので、修学旅行を1年生で行くんです。

でも、僕がつるんでる仲間達の学校は進学校ではないので、2年生で行くんですね。


ということは、僕の記憶では確か5泊6日くらいだったんですけど


要は、僕の周りの毎日つるんでる連中が誰一人いなくなるわけです。修学旅行に行っちゃって。


そうすると、暇なんですよ。




だから、たまたま友人が置いていたアコースティックギターを使って「一回ギターの練習してみよう!」と思って、その友達が修学旅行に行ってる期間ずっと、ギターの練習をしたんです。


そうすると弾けるようになりました。



そこから、元々やっていたロックバンドではなくて、違う意味で感銘を受けた尾崎豊や、出始めたばかりの福山雅治とか、当時バンドスタイルだったMr.Childrenといった日本のアーティスト。


プラス、海外のクラプトンだったりジョンレノンだったり、当時のアコースティックのビッグネームの方々のコピーをどんどんやるようになりました。


これが作詞作曲、歌うようになったきっかけですね。




阿部:社長はドラムもギターも歌も、どれもされるのですか?


そうですね。僕はドラムも好きだったし、ギターも好きだったし。歌うのも好きだった。


でも結局ね、僕は詩を書く曲を書くのが好きだったんです。


ギターが弾けるようになってアーティストのコピーをやっていた高校2年の冬頃に、一緒にバンドをやっている一人が初めてオリジナル曲を作り始めて「聞いてくれへん?」ってことで聞いたんですね。


そうしたらそれがいい曲で。


あ、そっか。曲を書く手ってあるなって思ったんです。

そこからですね。曲を書いてみようと思ったのは。




阿部:そこから音楽がどんどん面白くなっていったんですか?


今まではコピーじゃないですか。

憧れてた人に近づきたい、真似る。


でももうそちらの楽しみよりも『ゼロから1を生む』完全オリジナルの楽曲を『自分が生み出す、創る』その面白さにのめり込みました。




阿部:ゼロから1を創り出すことは、今のビジネスにもつながっていますか?


はい。つながっています。




阿部:ありがとうございます。社長は高校を卒業されてから19歳の時に上京されたのですか?


18歳で高校を卒業する。その頃は僕はまだ東京っていうことは頭になかったんです。


高校生でオリジナル曲を作って弾き語りをするようになった頃から、定期的に和歌山から電車に乗って大阪の難波に行って、戎橋のあたりでギター1本持って行ってストリートライブをやってました。


当時の田舎の高校生からすると東京っていうのは、縁もゆかりもないですしはるか遠いイメージだったので、まだその頃はプロに絶対なると、音楽でデビューするんだ!というところまではいってなかったんです。


ただ、この大好きな音楽をやって大阪に出たい!


でも親に「音楽の専門学校に行かせてくれ」と言っても「ナメてんのか」と言われましてね。


なので、就職しかないよね。

ということで就職したんですけど、3ヶ月半。


僕の人生の中でのサラリーマン生活はこの3ヶ月半だけなんです。


大阪に出るために。

大阪の企業を選んで。

大阪の中心地で社宅や寮のあるところを選んで就職しました。


石油とかを生成したりする工場もやりながらガソリンスタンドもやってる。そういう会社でした。




阿部:3ヶ月半の就職。入社した頃にはもう退社を決められていたのですか?


あれは忘れもしません。4月の入社前、3月中旬頃から新入社員研修が合宿所であったんです。


もうその時に「これ無理やな」と思いましたね。


ただ思ってたんですけど、次も決まってないし惰性で行ってました。


ちょうど3ヶ月ちょっと経った頃に実家のばあちゃんが亡くなったんです。


葬式の為に帰る電車の中で「ばあちゃんの葬式が終わって大阪に戻ったら辞めよう」って決めましたね。


そして帰ってすぐに辞めました。先も何もないのに。


とは言え、そこから大阪に2ヶ月残ったんですね。

フリーターをしながら。


バイトを探して、家賃の安いボロボロのアパートを探して。

そこに移ってバイトを掛け持ちしながら、空いた時間は弾き語りに行く。


そんな生活をしてました。




阿部:そこで2ヶ月を過ごして東京に行かれたのですか?


いや、そこから一旦和歌山に戻りました。


バイトも短い時間で時給のいいものを選ぶとなると、普通のバイトじゃないんです。


今よりコンプラもない時代なんで、今だと募集もかけれないものが雑誌や新聞でいっぱい募集されてたんです。


最初はよかったんですけど、今で言うところの『反社』ですよね。

3ヶ月くらい経つと、所謂そちら側のスカウトを受けるわけです。


「ヤバいやろ、それ」と思って最初断るんですけど、勧誘がしつこくて「このエリアにおられへんな」ってことで一旦和歌山に帰りました。


それが18歳の夏頃だったと思います。



続く……

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