top of page

【情熱輩先】㈱紀乃屋 中井社長〜未来は創造によって作られる〜第2話

執筆者の写真: 倶楽部 オアシス倶楽部 オアシス

更新日:2024年8月12日


[前回のお話]


幼少期を和歌山県の沿岸部、海と山に囲まれた田舎町でわんぱく坊主として育った中井社長。親の影響で野球を始めますが、とても惨めな思いをして、大好きだった野球が嫌いになってしまいます。


中学生になれば、絵に書いたような『ヤンキー』

その頃から音楽に目覚め、伝説のロックバンドBOØWYのコピーバンドを始めます。


部活で投てきをすれば表彰され、柔道をやれば黒帯。

強い男になりたい!音楽もやりたい!その狭間を行ったり来たり。


ドラムも叩くし、ギターも好き、歌うのも好き。詩を書くのも曲を作るのも好き。

どんどん音楽にのめり込んでいき、自分が生み出す、創るその面白さにハマります。


高校卒業後は、音楽をしたくてギター1本抱えて和歌山の田舎から大阪に。

ボロボロの家に住み、仕事をしながら隙間にストリートライブで弾き語り。


夢をもって出ていった大阪なのに「ヤバいやろ。もうここにはおられへん…」

和歌山に戻ります。18歳の夏頃のことでした。




阿部:地元に帰られてバンド活動をされたのですか?


地元なので、土木系建設系のアルバイトもありながら、農業の梅の収穫のアルバイトなど給料のいいものはいっぱいあるんですよね。


フリーターでそういったアルバイトをやりながら、同じように音楽をやってました。



ただ、田舎で披露する場がないので、曲を作って作品をためていくってことをやってました。


大阪時代は、自分が作って弾いて自分が歌うというスタンスだったんですけど、地元に帰ってくると学生時代のバンド仲間がたくさん残っていまして、


その中にはコピーバンドじゃないオリジナルをやりたい!って連中もいたので、声をかけて「夜仕事が終わったら集まって練習やろうぜ!」ってことで、僕が書いた曲をバンドにアレンジして演奏してました。



それをやっていくうちに、ふつふつと僕の中で


『デビューしたい』


『バンドでプロミュージシャンになりたい』


という思いがすごく強くなってきたんです。



生ギター1本で演奏して歌う自分が書いた楽曲を、バンドサウンドに落とし込んだ時に、すごく『かっこええな』『イケるな』って思ったんですよ。



それが自信に変わったんですね。



ただデビューといっても、どうやったらいいのかわからないので、ある程度たまった楽曲の中から、自信のある楽曲を10曲くらい自分たちでレコーディングをして、募集していたレコード会社に送ったんです。


送ったものの半年近く何の音沙汰もなく『あかんかったんやな』と思っていた、忘れた頃に連絡があって



「東京に出てこないか」と。



「よし!行こう!」


ってことになったんです。




ただね、ここでもね。スムーズにはいかなかったことがあったんです。


当時デモテープを送って和歌山でやってたメンバーは、5人いたんです。


だけれども、そのうち2人はいざ東京に出る!となった時に、



「そこまでの覚悟と根性は俺らにはないわ」



ってことで、2人が脱退。



5人の内2人が脱退して、3人で上京します。


だけどその2ヶ月後に、また1人が辞めて…


結局2人になりました。



当時、東芝EMI系列の事務所に声をかけてもらって行ったんですけれども、もちろん給料やギャラがあるわけではないので、バイトをしないと飯が食えなかった。


その時僕はヴォーカルで、もう一人がギターリストだったので、2人でバイトをしながら夜は曲を作って、隣のライブハウスにベースとドラムの募集を出して、という生活を半年ほど送ってた時に、弟から突然連絡がきたんです。




当時就職で大阪に出ていた2歳違いの弟は、僕の影響を受けて高校卒業までずっとドラム1本でバンド活動をやっていました。


「兄貴、メンバー見つかったん?」


「いや、見つかってないねん」


「俺ドラムで、俺と一緒にベースやっとったやつがプロになりたいって言うとるから、2人で東京出ていくわ」



そう言って弟とベーシスト2人が出てきてくれて、初めて4人編成になって、やっとライブ活動ができるようになりました。



そこからはバイト三昧、ライブ三昧。





阿部:バンド活動時代、一番大変だったことはどんな事でしたか?


芸能人は絶対そこを通って進まれるんですけど、


結局バランスがとれなくなってくるんです。



何かって言うと、ライブやラジオの仕事が増えるんですけど、そっちのギャラでは食えないわけです。


でもね、そちらのウエイトが増えてしまうと、バイトをする時間がなくなってしまう。


そのバランスですね。



だからやっぱり、食う為の生活費の捻出っていうのが、すごく大変でしたね。


大阪の時とはまたちょっと違って、歌舞伎町でホストもやりましたし、究極のバイトもしました。



今となっては都市伝説やと思われるかもしれませんが、当時はあったんです。人体実験のモニターになるというバイトが。


3泊4日で場所は ”ピー” なんですけど、神奈川県のある場所に寝泊まりして、定期的に貼り薬や飲み薬をやるだけで、退院する頃には20何万もらえたりするんです。


しばらくそのバイトは続けましたね。


治験のバイトをやりだして少し経ったくらいに、デビューアルバムを出したんですけど、

そうするとね、全国ツアーが組まれるんです。




そのツアーも僕ら和歌山出身なんで、関西圏中心になるんですね。



そこでローカルのTV局の撮影や舞台の仕事も入りだすと、芸能界あるあるなんですけど、不思議とギャラじゃなくてわけのわからへんパトロン、所謂タニマチ的な人が寄ってくるんです。



当時19、20歳の右も左もわからない僕に、


「頑張って売れてくれ。メジャーになるのを応援するから」


と言って、自分にお金がなくてもそういう人達は、ご飯を食べに連れて行ってくれるんです。


しかも小遣いで5万、10万もくれる。


そのあたりから、事務所からの正当じゃないギャラで食っていけるようになっちゃったんですよ。



そういうパトロンの人達というのは、売れる前に目をつけてツバつけて、ご飯食べさせたり小遣いをやって首根っこを押さえておくわけです。


そうすると、売れた時に版権元という版権があるんですが


「それをよこせよ。食わしてやっただろ、面倒をみてやっただろう」


という事が起こるわけです。



その片鱗が1年半後くらいに見えてくるんです。


それまでご飯食べさせてくれて小遣いくれてた人達がですね、アルバムを出した後、ツアーが終わったくらいから



「次に出すCDの権利を半分くれ」


「今度こんな集まりがあるから事務所に内緒でライブしに来い」


っていうことが出てくるわけです。



『なんかこれちょっと雲行きおかしい…』


って、なるじゃないですか。



僕の中では、ターニングポイントや起点というのはいくつもあるんですが、


おそらく僕は、今につながるところの一番のターニングポイントが、この後出会う方なんです。





阿部:それはどんな方なんですか?


ちょうど今お話したような状況で、首根っこ押さえられかけてる。でも事務所の言うこともきかないと首切られてもマズイ。


そんな葛藤がある頃、それまで自分達4人で詩も曲も書いてアレンジもやってましたが、ある方に「サウンドプロデューサーを入れてみたらどうだ」という声をかけられます。


その方は、フォーライフ・レコードといって八神純子さんや長渕剛さんがレコーディングしてリリースしているレコード会社があるんですけど、そこの社長さんですね。


サウンドプロデューサーというと、わかりやすく当時めちゃめちゃ有名な方で言うと小室哲哉さんとかですよね。


自由が丘のレコーディングスタジオで、フォーライフ・レコードの社長が引き合わせてくれたその方は、ご自身はペンネームを使われて名前をフロントに出すことをされない氷室さんという方でした。


僕が師匠と呼ぶ人です。



音楽制作って、関係者と24時間何日も一緒にいるんです。


それもあって、氷室さんとは最初はやっぱり音楽の打ち合わせばっかりなんですけど、ご飯も食べに行ったりお酒も飲みに行く機会が増えてきて、音楽以外の事を相談するようになったんです。



その時の状況を氷室さんに話すと


「いやいや、もうね、どこかの事務所に所属してパトロンやタニマチに食わせてもらいながら半分首輪で繋がれるのは、これからのアーティストの時代じゃないよ」


そう言われて、セルフマネジメントを始めていきます。



当時Mr.Childrenがその走りをやっていたんですけど、Mr.Childrenっていうのは途中からプロダクションに所属してないんですよね。


2枚目のアルバムからは、自分たちの作った会社で自分たちのマネジメントをして運営していくっていう、セルフマネジメントプロダクトっていうのを作ってはったんです。


でも、海外のアーティストっていうのは、当時みんなそうでしたから。



だから「やりなよ」って言われたんですけど、


ただ、会社作るのに「お金ないっすよ」って話になったんです。



「わかった。じゃあ」


と言って、氷室さんは電通エンターテイメントミュージックに(電通の第11次事業部)話をもっていってくれたんです。



そこで出資をしてもらうことができたんで


自分達が取締役で、経営者でありながら所属アーティスト


という形で、有限会社をスタートさせました。



会社を運営していかなきゃいけないですし、アーティストとしては全然売れていなかった。


なので、電通や氷室さんの下請けとして、音楽制作やアレンジのお仕事をアシスタントで手伝う。そんな事をやっていました。


そこで本当に音楽業界でクリエイターとして飯を食っていくための教育を氷室さんに受けましたね。ビジネススキルは直接電通さんに叩き込まれました。


ずっと言われたのは


「経営者としてのビジネススキルも身につけないといけない」



なのでそこからは、アーティストとしては大して売れなかったんで、ギャラはなかったんですけど、


その当時は浜崎あゆみの全盛期。


他にも師匠がジャニーズ・エイベックスたくさん依頼を受けていたので、Every Little Thing、和田アキ子さんなどの当時のビッグネームのレコーディングでアシスタントで行ったりしていました。


師匠の会社の下請けに入れてもらって仕事をすると、会社に対するfeeが入ってくる。


それで同年代の人並みよりいい生活をするようになりました。




阿部:ご自身の音楽活動はこの時もされていたんですか?


並行してずっとしています。

そこからもCDはトータルで5枚ぐらい出してます。


28歳から29歳になる時に最後のアルバムを出したのかな。


そこまでっていうのは、曲も作りながらライブもしながら、ローカルのTVやラジオに出ながらアーティストとしての活動をやりながらプロダクションとしての下請けの事業をやっていました。


あの頃が一番ハードでしたね。

寝る間もなかった。




阿部:では社長が事業に目を向けられたのはその頃からですか?


いや、まだ向いてないんですよ、実は。


単純にアーティストを諦めて、プロダクション経営に専念していれば普通に僕、成功していたと思うんです。電通もバックにいたし。


だけど、今そうじゃないじゃないですか。



やっぱり、それなりに初めて23歳ぐらいで作ってもらった会社でうまくいってるにも関わらず、それを辞めちゃうっていう理由があるわけです。




阿部:どんな理由なんですか?


これも結局、田舎あるあるで、僕らって地元の人が誰も知らない状態で東京に出ていってデビューしてるというパターンではなくて、


田舎ですけど学生時代からそれなりに有名で、東京に出ていく前にライブ活動をやったりオリジナル曲をやったりで、それなりにお客さんも入っていた。


そういうところがあるので、地元のメディアにある程度ちやほやされた状態で東京に出ていってます。



田舎ですので地元の人達がですね


「あいつらは音楽で東京へ出てってる」と言うわけです。


デビューはしたけれども、全国ネットの歌番組にはなかなか出れない状態。



そうすると、2年に1回とか地元に帰ったりすると、みんなに言われるわけです。


それは嫌やなと思ったんですけど、僕らは帰った時に言われるだけで東京へ戻ってしまえば関係ない。


だけれども、自分の親や当時、年の離れた妹がまだ高校生だったんで、やっぱり学校でもすごく言われるわけです。


誹謗中傷を受けるわけです。地元の家族が。



28歳になったくらいに、それまでプロダクションもやってますし芸能界に人脈が広がってるのでね。会社として、法人としては成功してるんだけれども、音楽では成功していない。


当時、エイベックスの前身のバーニングプロっていうところが芸能界を牛耳ってたんですが、そのバーニングプロの◯◯さんという、美空ひばりさんとかを売ってきてるような人にお願いをしに行ったんです。




一発屋でいい。


売れなくてもいい。


1曲何か主題歌タイアップとって全国の歌番組に出たい。


そうすれば、スパンとその田舎の家族が浴びせられる声が止まる。




「わかった。必ず3ヶ月だけは全国TVひねったらどこでも出てるようにしてやる」


そう言われました。



「やった!やっとか!」



と、思うんですけどその後



「次の日にメンバーを全員連れてきなさい」


と言うわけです。



「わかりました」



帰ろうとした時に、こう言われました。



「あのさ、明日メンバーが来て所属契約に印鑑押した日からね、もう君たちは堅気じゃないんだっていう覚悟をもって判子を押してね」



意味はわかってます。


今でこそガーシーさんが暴露してますけど、あんなものは当時はもっとひどい状態で当たり前にあったので。



「あぁそうか。いよいよそっちに足を突っ込むんだね」


というのは僕自身ありました。



「よしわかった。腹くくる」



ただ、その後自分の会社兼スタジオに帰ってメンバーに話すと、


僕以外の3人が



「無理や」と。



「あの世界ってヤクザと一緒やん」


「俺らは音楽が好きで音楽で飯食うために出てきてんねんから、ヤクザになりに東京に出てきてない!だから俺らはでけへん」


「怖いし」



そうなるとバンドをたたむしかないわけですよね…。



とは言え電通さんには、僕だけ東京に残れって言われたんです。



「会社たたんで、電通のエンターテイメントミュージック部門の社員にしてあげるわ」


「キャリアもあるし人脈もあるから」



でも僕はそれが嫌だったんです。


それやったらバンドもたたんで会社もたたんで、それぞれの人生歩んでいきます。



ということで


バンドを解散、会社をたたみました。




4人でやってた内の僕とベーシストの彼は、やろうと思えば継ぐべき家業があったので、和歌山に帰りました。


ただ、弟とギターリストの彼は、次男三男という形で継ぐべきものがない。



ギターの子は元々板前をやってた料理人。


当時1号線に激戦区だったんですけどラーメン屋さんがたくさんあって、よく食いに行ってました。


彼は「ラーメン屋をやるんだ!」


ということでそのラーメン屋に修業に入りました。



弟は会社をたたむ少し前から、渋谷にあるITスキルを身につける夜間専門学校に行ってましたので、それを活かして東証一部上場してるIT企業に入ります。



それで僕は、ベースの子と2人で和歌山に戻って、所謂農業と漁業という家業を継ぐわけです。



最終話に続きます……


閲覧数:104回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page