ある日、祖父から先祖の土地の管理を任されることになりました。
その土地は農地であり、点在していますが、全部で約一町程だというのです。
私は、農地に対しての知識が全くなく、農業に関わった経験もありません。一町とやらが、広いのか?狭いのか?大きいのか?小さいのか?どう捉えるべきかも皆目検討が付きませんでした。
ただ、先祖が大切に紡いでくださった土地であるわけですから、なにわともあれ、意味のある活きた何かにして行かなければという思いだけが胸に宿りました。
有難いことに、私の事業は順調で、資金に余裕もあったものですから、新たな事業として「アグリカルチャー」を設立し、そこに次男(タクミ)を責任者として任命しました。
この当時、タクミは25歳を機に、地元のアイドルグループ活動を卒業しており、この先、人生を掛けて打ち込める何かを模索しておりました。
生来優しい性格の子であり、人や生き物のお世話を、やり甲斐を持って行えるような所があることを知っておりましたので、話を持ちかけたところ、やってみたいということになったのです。
またその頃、家庭では、生まれた子供の責任を負いながら、仕事において、活躍の場が見出せずにいた井上(タカオ)が参戦。
ご存知の通り、アグリボーイズ・タカタクに白羽の矢が立った形となりました。
今となっては、農業との相性は良かったように感じます。
皆様、ご存知の通り此処から、とても順調とは言えない日々が2人を付き纏います。
紆余曲折、自問自答しては少しづつ成長して、タカタクは農業事業者としての実力を付けて行ったのです。
しかし、経験は付いても、実力はあっても、利益にはなりません。それが現実です。それが葉物野菜という、生活に最も身近で、儲けから最も遠い存在なのです。番組をご覧頂いていた通りの毎日が続いておりました。
ただひとつ、皆様に伏せていたエピソードがあるのです。
それは私と、紀乃屋の中井社長との出会い。
今日は、「坊ちゃん南高梅」プロジェクトがスタートする迄に至ったキッカケの物語を、少しお話し致します。
ある方を通じての不思議なご縁で、私は中井社長にお会いすることができました。
私達はお互い77年生まれ、同世代ではなく、同い年というのは、より共感しやすいものだったかも知れません。
幼い頃、思春期の頃、見ていた景色や、焦がれたことに対する共感。
何も持たない田舎の若造が、世に打って出た際に受ける洗礼が、どのようなものかを知る共感。
面の皮も厚くなり、痛みや怖さが鈍くなって来た頃、不思議とどう生きるべきかを知ることへの共感。
とても真新しくもあり、とても懐かしくもある。
人生の歩みを止めなければ、その様な出会いも訪れることに、現世の仕組みを解き明かすヒントを、またひとつ頂いたような気がしました。
中井社長の歩まれた歴史、そのお人柄も皆様は、情熱焙煎千恵美の3部語りにより、既に御承知おきのことでしょう。
紀州和歌山は、みなべ町出身であり、日本を代表する紀州南高梅の名産地です。何処を見渡しても梅農家、1坪あれば梅の木を植えるが常識の地域柄です。
研究、検証され続ける梅生産・加工技術は、もはや他県が追い付ける隙はありません。
中井社長は、群雄割拠の梅事業家が溢れる中で、たった一代で梅事業を6次産業化に仕上げた稀代の英雄であります。
ある時、私は先祖の土地の管理を任され、どうにか意味のある生きた土地とすべく、タカタクという若者2人が、葉物野菜を生産販売しながら、悪戦苦闘の日々を送っていることを打ち明けました。
すると中井社長は、タカタク達を慮って、こちらを気遣いながら、こう仰いました。
「田坂さん。野菜は作れても、利益を出すのは本当に難しいのです。利益を出すには、それなりのやり方があります。宜しければ、お力になりたいのですが。」
世の中には、少なからず誰かの為に力を貸したいと、本気で思い生きておられる方がいらっしゃいます。
この様な有難い申し出を受け、苦境にあったタカタクに風が吹き始めました。
先祖のお導きなのか、はたまた、若き漢達の情熱が生み出した引力か....。
回り出した歯車が、1/5の最初の鐘を鳴らすまでのエピソード2
これ以降は、大山ともこがともこがたりにて、お伝えさせて頂きます。
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